一般的には「常識から外れていること」という意味合いで利用されるケースがほとんどなんですけど、それならシンプルに「常識を逸する」という言葉で表現した方が容易に理解しやすい気がするんです。💦
常軌の「軌」を使った言葉でよく耳にするのは、例えば衛星軌(●)道とか軌(●)跡を追うというように、定められた道を動く状況やその形跡を連想させる意味合いで使われることが多いと思います。🧐
ここで肝心なのは動いている物体が定められた道を常に安定して動いていることを意味していて、動きが安定していなければもはや軌道でなく邪道であり、いつどのような動きをするか分からない状況に陥(おちい)る可能性があるということなんです。🐉
話を戻してこれを私たちの世界に当てはめてみると、動いている物体が人の例えというのは分かるけど、常識ではなく常軌で表されることを踏まえると社会通念的な観点というよりも、意外にも個人主体的な観点による意味合いが強い言葉であることが分かります。👪
確かに軌道や軌跡はその物体一つ一つで異なるものですし、それが人であればまさに十人十色や千差万別のような、この世に生きる一人一人が持つ個性てある性格や心情を指し示していることになると思います。💕
その時自分自身が自分らしい安定した生活を営んでいる実感を持ち続けているとしたら、それは間違いなく自分自身にとっての常軌であって、仮にそれが世間一般の常識と多少違っているとしても、それは個性のレベルとしてまずは尊重すべきもので、何より本人の存在意義そのものであったり生き甲斐や生きる力の源と言えるのかもしれません。💪
人間社会において個性のレベルを分かりやすく言えば自己欲求そのもので、感情と意志を持ち自由に動ける身体を有する生き物であれば必ず持ち合わせているものです。😇
そしてまた常軌という安定している状態は自分自身でしか感じ取ることができないために、他人には間接的な理解が難しく行動や言動のような直接的な行為と自身の経験から判断せざるを得なくなります。🧐
「常軌を逸する」を「常識を逸する」と言わないのは、こうした理由から常軌が常識にすり替えられているからであって、たとえ他人が抱く常識から逸脱した状況として感じられたとしても、当の本人にとってはそれが安定した状態すなわち常軌を逸していないということも十分に考えられるのです。😊
というわけで本来「常軌を逸する」言葉が使えるのは、本人が関わっている現状とそれにどのように向かい合っているかを十分に理解している場合だけであって、世間一般や身勝手さから生み出された常識で推し量(はか)るのなら、正直に「常識を逸脱した」という言葉が当てはまることになりますね。💡
この言葉が生まれた大昔に多様性と言う意識があったのかは分からないのですけれど、個々の生き方や存在そのものに深い愛情と理解そして尊重の念があればこその言霊(ことだま)のように聞こえてきませんか。👂
ホント日本語って奥が深いですね。。。